加藤与五郎


加藤先生について



加藤先生の元で、長年先生のご指導を仰いだ武井武先生が 1982 年に
加藤先生のことを書かれた文章をそのままお読みいただきます。

加藤先生は武井先生の東京高等工業高校(蔵前)時代の恩師であり、
東京工業大学昇格時に、加藤先生が科長をされた電気化学科に
助教授として招聘されて以来長い間ご指導を受けています。

先生の生涯

 先生は明治 5 年に愛知県の田舎,伊佐美村野田西屋敷の農家に生れた。郷里の高等小学校を卒業した後,中学校の教師を目指して独学で勉強していたが,向学心に燃え,ついに意を決して京都に上り,現在の同志社大学の前身であるハリス理化学校に入学した。卒業後仙台の東北学院の教師をしていたが,大学を卒業する必要を痛感し,京都に上り,京都大学理学部化学科の聴講生となり,ついに明治 33 年に選科生として入学された。在学中,高等学校卒業資格試験のために並々ならぬ苦労をしたが,見事に合格,明治 36 年に卒業して理学士となった。卒業後直ちに,米国 MIT の A. A. Noyes 教授に招かれ,教授の許で W.D. Coolidge 博士を学友として研究に従事した。ここで独創的な研究の在り方を会得されたと言われている。 明治 38 年に帰国し,東京高等工業学校の応用化学科に奉職し,大正元年には選ばれて電気化学科の科長になった。これよりさき,明治 44 年にはコロイド化学の研究によって理学博士の学位を受け,また大正 6 年には中村化学研究所を創立して電気化学工業の開発に努力された。
 この学校が東京工業大学に昇格後も引き続いて電気化学科の主任教授として研究と教育に尽瘁され,多くの共同研究者を指導して,すばらしい創造的な研究成果を挙げた。昭和 17 年に定年で本官を退いたが,その後は先生の寄付で設立された資源化学研究所において,研究の指導をしておられた。
 昭和 26 年にはここをも退き,加藤科学振興会の仕事に専念され,軽井沢に研修所を設けて,若い学徒を対象に,創造教育の育成と独創的な研究の普及に力を注いた。若い頃から非常に健康に注意され,90 才頃でさえも,午前は読書,午後は野外仕事の日課を送り,95 才の長寿を保たれた。奥様のトラ様とは東北学院時代に結婚されたのであるが,奥様も健康に注意され, 100 才の長寿を保たれた。

業   績

 先生は明治の後期から昭和の 30 年頃まで,多くの共同研究者と一緒に,寝食も忘れるほど熱心に研究に従事された方であるので,研究業績は数えきれないほど沢山ある。そのうちで,先生らしい特徴の多い研究業績のいくつかを申し上げる。 先生はNoyes教授のもとで高温度における水溶液の電気伝導について研究をしていたが,帰国後もこの方面の研究を続け,各種の無機質および有機質コロイド溶液についてその電導性を究明し,これを学位論文としておられる。大正 3 年に第 1 次世界大戦が勃発し,電気化学工業製品の輸入が困難になると,先生は卒先してこの製品の開発に精力を傾けた。フェロシリコンの開発研究はその一つである。学校の小規模な実験に見透しを得たので,先生は資本金 3 万円の東京電気化学工業株式会社(社長西村直氏)を昭和 4 年に創立し,川越町(現在の川越市)に工場を設置し生産開始した。最初は製品が得られないので非常に苦労したが,ついに突飛な,冒険的な試みによって製造に成功した。この会社は大正 6 年 1 月から本格的に新製品を市場に出し好成績を挙げ,同年東北電化株式会社に発展し,福島県下に工場を持ち,フェロアロイの生産に大きく貢献した。先生の努力が実ったのである。大戦後のパニックによって,この会社は大正 11 年に解散となったが,先生が先鞭をつけた製造の技術は佐野隆一氏に依って,鉄興社として引き継がれている。
 大正 6 年には船成金中村精七郎氏の出資により中村化学研究所を創立し,自ら所長となって電気化学工業の開発に活動されたが,これも先生の研究意欲を象徴するものである。当時は空中窒素固定が問題になっており,フランカロー式の間歇法が実施されていたが,先生は独自の方法を学校で研究していたので,これをこの研究所で工業化試験するつもりでいた。電弧法による硝酸製造法についても学校で実験していたので,これをもこの研究所で試験するつもりで,反応塔や練瓦などを取り揃えていた。鹹水の電気分解などにも着手された。ところが一年足らずのうちに出資者が倒産してしまったので,これらの研究は座折した。先生は非常に落胆したが念願の研究を断ちきり難く,百方力を尽し,ついに揖斐川電気工業株式会社に電弧法による硝酸製造の研究を行なわせるようにした。早速試験所である東京電気黒鉛株式会社に設備器材を搬入し,佐野隆一氏を主任にして研究を進めた。研究は予定通りに進み,試験設備は大垣工場に移され,本格的の生産に進むことになった.ところが,この頃より世情が変り,アンモニヤ合成法が普及して,硝酸が安価に生産されるようになった。このため,苦労を重ねた先生の電弧硝酸法はついに実施されなかった。まことに残念なことであった。それにしても,50 才にも満たぬ高等工業学校の一先生が,多くの業界人を動かして,これだけの研究を仕上げたことは驚異的で,先生の熱烈な研究意欲の賜物である。
東京工業大学創立の際には研究業績の多い学者を数多く教授として迎えたから,学校は挙げて研究に熱中していた。研究発表会は熱気を帯びていた。加藤研究室はその最たるもので,先生は得意な熱弁をふるって研究成果を発表した。研究室には秀れた若者が先生に叱られながら,応用研究に突進していた。仕上げられた成果は実にすばらしく,特許も夥しい数にのぼっている。そのうちのいくつかを紹介する。
 昭和の初期にはアルミニウムの国産化が主要な課題であった。国産資源が乏しいので多くの研究者が,礬土頁岩などを対象にバイヤー法でアルミナを製造する研究を行なっていた。先生は,新しい発想で,硫酸法によるアルミナ製造法を研究していたが,この方法を知った大日本製糖株式会社の藤山愛一郎社長から,北大東島にあるリン酸礬土鉱を硫酸法で処理してはどうかという話を受けた。リン資源の開発にも心を燃していた先生は,この方法こそリン酸肥料と窒素肥料とアルミナを製造する一石三鳥の方法であると信じ、舟木好右ヱ門助手(現名誉教授)を主任として、この開発に意欲的に進んだ。
 実験室の試験で確信を得たので,工業化試験をすることになったが,濃硫酸とリン酸を取り扱かうので,思わぬ事故続出に手をやき,舟木氏らは悪戦苦闘した。でもついに,試験に成功して昭和 12 年日東化学工業株式会社が設立され,これが化学工業界の注目の的となった。
 この会社でもさんざん苦労し,わずかのアルミナを生産したが,リン鉱石の品位低下などの原因も重なって,終戦とともに操業が中止された。このようなわけで,硫酸法は今行なわれていないが,先生の残した発想と多くの開発者が経験した苦労は今日の化学工業界への大きな貢献となっている。先生はこの発明の売却費として参拾万円を取得したが,これを学校に寄付された。学校は,この寄付で資源化学研究所を創立した。先生はここで,所長として,さらに応用研究に適進された。これこそ正に,応用研究の華であると思う。
 昭和初期にはマグネシウムの国産化も重要な課題であったが,無水塩化マグネシウムの製造に難点が多いので,多くの研究者がこれに手をやいていた。先生はこれに着目し,陽極室で,電解中に,マグネシヤを塩素化する新しい発想を打ち出した。そして高瀬理三郎氏(後の関東電化株式会社専務取締役)を主任として,執念深くこの塩素化研究を進めた。実験室で一応の見通しが得られた頃,旭電化株式会社がこの方法を工業化することになり,高瀬氏はこの成果を持参して入社した。会社では浦野三朗氏(後の関東電化株式会社社長)と高瀬氏がともに苦闘し,補正や手直しを加えて量産技術を仕上げた。その結果,新たに関東電化株式会社が設立され,高瀬氏らは戦時中,地獄のような苦しみの中で,マグネシウムを生産した。 終戦とともにこの方法も中絶された。しかし,先生の発明と,量産化のために行なわれた多くの人々の苦闘は,独創的研究のきびしさを物語ると同時に,国産化技術の確立にまことに貴重な教訓となっている。
 白金は酸素過電圧が特に大きいので重要な陽極材料であるが高価である。そこで先生は白金に代る電極の開発に着眼し,この課題を小泉勝永氏に任せた。氏は共同研究者らと,新しい発想を駆使して,ついに硝酸鉛水溶液の陽極酸化によって,堅牟な PbO, の厚膜を得ることに成功した。この成果は業界の注目をひいたが,実用電極として量産するには数々の難点を持っていたので,この研究はその後多くの研究者に引き継がれ,立派な電極として電解酸化用に供されるまでに発展した。 小泉氏はこの電極を用いて過塩素酸ソーダを製造し,これで屑絹を再生する研究を行なっていたが,これが鐘ヶ渕紡績株式会社津田信吾社長の認めるものとなった。会社は鐘ヶ渕に東京理化学研究所を新設して,小泉氏を所長として迎えた。氏はここで各種の先端的な新製品を仕上げた。津田社長は小泉氏を迎へ入れる代償として,拾万円を加藤研究室に寄付した。昭和 10 年のことである。加藤研究室の研究がいかに高く評価されていたかはこれでわかる。
 石灰窒素誘導体の開発は有機化学専攻の杉野喜一郎氏(現名誉教授)に任された。氏は共同研究者とともに,グアニィヂン系その他各種の新誘導体を合成し,それの用途を開発した。その成果は日本カーバイド株式会社に移され,魚津工場などで実施された。
 明治製糖株式会社の案内で台湾の製糖工場を見学された先生は,これからヒントを得て,バガスや糖密の利用,脱色用活性炭などの研究に着手した。バガスの研究は水口純氏(元教授)室谷寛氏(元教授)らの担当で進められ,加藤式が台湾で実施される段取りまで発展した。しかし,戦争激化のため,生産は中止された。
 加里資源の開発にも注目していた先生は早速相川秀雄氏に糖密から加里を回収する研究を任せた。その結果,加里を鰮溶性の複塩として回収する方法が出来上り,これを工業化する段階になったが,この仕事も戦争のために中止となってしまった。しかし,先生の加里回収に対する執念は強く,ついに海水有効利用にまでに発展した。そして,相川氏らは一貫した加藤式回収法を仕上げた。この成果で,昭和 14 年には関東洲加里工業株式会社が設立され,共同研究者らが出向して,加里,臭素,マグネシヤなどの回収に活動した。この仕事も終戦と同時に中止されたが,国内資源の開発に対する先生の真剣さと,平易な無機化学を縦横に,巧妙に駆使した発想は実に貴重なものである。
 亜鉛冶金の改善に留意していた先生がアメリカの雑誌記事から思いついたのが,フェライトの研究であった。この課題を私が頂いた。基礎的な実験を繰り返しているうちに発見されたのが,磁場中冷却効果と軟磁性効果である。化学畑の私たちにはこの現象の理論的な解明は困難であったので,私たちは応用に進み,フェライトの磁石と磁心を開発した。これらが,河合登氏(元三菱電機株式会社取締役),斎藤憲三氏(東京電気化学工業株式会杜初代社長), 山崎貞一氏(東京電気化学工業株式会社二代社長)などの協力によって,三菱電機株式会社と東京電気化学工業株式会社で工業化されることになって,フェライト磁性材料の端緒が拓かれた。思えば,先生が与えた研究題目は,正に先端的な天下一のものであった。先生は日夜研究開発の執念に燃え,外国雑誌の記事にまで目を向けておられたのである。
 アメリカで私が得たヒントを早速先生が採用して人造偏光板の研究が開始された。主として星野愷氏(現名誉教授)がこれに当った。この研究は日米独の三国競争となったので氏は非常に張り切って研究に当り,人造偏光板「ダイクローム」を仕上げた。三菱電機株式会社がこれの工業化に当った。この偏光板は新製品として注目され,一時は広く利用された。 先生は塩化アセチルと綿から酢酸繊維素を製造する発明をし,これの工業化に熱意を注いだ。藤野 茂氏(後の清水天然瓦斯研究所長)が永年この研究に当り,苦労を重ねた。鉄興社と三井物産株式会社が共同で,これの事業化にまで乗り出したが,実施される情勢とはならなかった。先生はこれを非常に惜しまれていた。
 クロム鉄鉱の化学的処理も先生の永年の念願であった。池野亮当氏がこれに当り,Cr2O3 を安価に生産する方法を開発した。水野滋氏(現名誉教授)は鋸屑を利用する活性炭を開発した。ほかにも沢山の開発業績がある。
 このような莫大な研究開発業績はもとより先生の研究開発に対する執念であるが,その特長は研究分野がきわめて広いことである。これは先生が常に産業界と密接に接し,世の求める問題に真剣に取り組んだからである。大学の教授で,このような莫大な開発業績を挙げた例はまことに稀であろう。

性   格

 先生の莫大な業績の基になっているのは独創である。先生は日本の独創的研究の先覚者である。大正から昭和の初期においては,海外依存で,誰も独創を叫ばなかった。産業界はもちろん,研究機関でさえも海外技術の紹介と導入に忙しかった。この時代に先生は敢然と,真似を排し,独創を叫んだ。そして自ら範を示した。私達は,真似をするときびしく叱られた。苦しくても真似をしてはいけない。これが先生のモットーであった。
 「難問に当面したら精神を集中して静かに考える。必ず良き発想が生れ前進する。」これは先生が体験から得た信念である。創意通天,天人合一は先生の座右の銘の例である。軽井沢の加藤科学振興会研修所には先生自筆の「創造即進歩」の碑がある。先生は最後のどたんばまで,あきらめずに考えられた。考えているうちにどんどんよい知恵を出された。私は,先生のような型を遅大型と呼んでいるが,科学者は遅大型でなくてはならないことを先生から教えられた。
 先生は大欲を自負しておられた。「大欲は無欲に似たり,小欲を棄てれば勇気百倍,勇敢に突進出来る」と言っておられた。若い頃から,官や産業界と勇敢にわたり合ったあの勇気は,ここから出ていると思われる。
 「応用研究は特許にあり。特許を他人に任せることはできない。」この言葉は特許がきわめて重要な武器であった体験から得られた先生の信念である。先生は 200 以上に及ぶ特許を得ているが,得る苦労は実に並々なものではなかった。敢えてこの苦労に甘んじたのは,先生の研究に対する真剣さであったと思われる。
 先生は奥様とともにクリスチャンであった。信仰心に厚く,軽井沢に隠居後はキリストを科学的に解析されたこともあり,心を正しくして精進すれば事成ると説いでおられた。晴耕雨読のなかにも研究を忘れず,晩年はまことにおだやかな,気高い科学者であった。「志望清高」は晩年の作である。


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創研夏季研修について



1957 年から始まった創建夏期研修につき、加藤先生の補佐をし、先生が病床に就かれてからは主体的に運営をされてきた卜部泰正先生が、同志社大学工学会報第 32 号 ハリス理化学校開校 100 周年特集号(1990年)にお書きになった文章をそのままお読みいただきます。



「加藤與五郎先生と創研夏季研修」
工学部教授 卜部 泰正

故加藤與五郎先生と創研夏期研修については,奥田教授,山﨑氏および森川氏が詳しく述べておられるので,ここではなるべく重複を避けながら先生の略歴と夏期研修実施の経緯を紹介させて頂く。
 加藤先生は 1872 年(明治 5 年)愛知県に出生、1891 年同志社ハリス理化学校普通部に入学,翌年大学部第二種化学科に進み, 1895 年卒業,同校第 3 回卒業生である。(大学部第 1 回卒業生は鈴木達治氏ら 3 名,第 2 回 2 名,第 3 回 2 名で,三宅驥一氏ら 3 名が同校最後の第 4 回卒業生となった。)その後,熊本の英学校教師を経て仙台の東北学院教師をつとめたが, 1900 年京都帝国大学に専科生として入学, 1903 年同大学理工科大学純正化学科を卒業,直ちに渡米して M.I.T. の A.A.Noyes 教授の助手として 2 年間の研究生活を送った。1905 年東京高等工業学校(1929 年に昇格して東京工業学)に招かれて帰国し, 1906 年同校教授。1911 年理学博士。1912 年応用化学科から電気化学科が独立し同科長に就任した(当時の応用化学科長は鈴木達治氏であった)。1933 年電気化学協会初代会長に推され, 1934 年に東工大建築材料研究所初代所長,ついで 1939 年からは東工大資源化学研究所初代所長をつとめた。
 1942 年定年制施行により東工大を退官の後も,1951 年まで事務取扱の形で資源化学研究所長の職にあった。1942 年には先生の私財を基金として(財)加藤科学振興会が設立された。東京高工から東工大までを通して,教育・研究および日本の工業会の育成指導に挙げた功績は極めて多大であり,それらに対し発明協会などの表彰のか, 1952 年藍綬褒章, 1964 年勲二等旭日重光章を受けた。また, 1957 年には文化功労賞に選ばれた。同志社大学は 1964 年に名誉文化博士の称号を贈っている。1967 年に 95 歳で逝去された。
 1942 年,先生はその主張を「科学制覇への道」と題する著書で世に問われた。東工大で先生の薫陶を受けた方々の尽力で, 1973 年に「創造の原点」と改題して出版され,版を重ねたのち一時絶版となっていたが,このたび材料科学技術振興財団と加藤科学振興会の手により再版発行された。また, 1950 年 10 月に挙行されたハリス理化学校 60 周年記念式に招かれたときの,「ハリス理化学校の思い出」と題した講演にも先生の主張が盛り込まれている(同志社工学会誌 1 巻 2 号所載)。
 加藤先生は元同志社理事長故秦孝治郎氏と旧知で,また鈴木達治氏,三宅驥一博士らと共に同志社理工科教育再興委員会のメンバーとして, 1944 年開校の同志社工業専門学校設立に力を尽くされた間柄であった。1956 年夏軽井沢での再会という偶然の機会に吐露された,加藤先生の創造教育に対する年来の素志に感銘した秦理事長が,星名秦工学部長の積極的な賛同を得て学長等を説得した結果,加藤先生の指導による軽井沢での夏期研修が 1957 年に始められた。先生は米国から帰国ののち 50 年以上にわたって創造教育の重要性とその本質を説き,自ら実践してこられたが広く一般の認識と理解を得るに至らなかった。しかし,同志社大学有志の協力により,改めてその素志実現に向けての一歩を踏み出し,晩年の 10 年間に全力を傾注されることとなった。
 先生のご希望で化学と電気の学生 6 名および助言のための教員 2 名が参加して,夏期休暇中の約一月間ご指導頂くことになり, 1957 年 7 月初旬,共に専任講師であった中西進氏と筆者は星名先生の命を受け,具体的な打ち合わせと準備のため,軽井沢に加藤先生を訪ねたところ,当時 85 歳の先生は大変お元気で先ず年来の所信を熱心に説かれた。また,秦理事長の依頼を受けた安中の校友半田隆一氏の案内で,研修と宿泊に使用するシーモアハウスを視察されたが,教員に落ち着いて滞在して貰うには不十分であるとして,別に貸別荘の 2 室を手配された。工業化学科から 4 年次生 3 名,電気学科から 4 年次生 2 名, 3 年次生 1 名の学生が推薦されて参加し, 1957 年 7 月 20 日から 8 月 20 日まで第 1 回の研修が実施された。その後, 1959 年まではシーモアハウスを使用した。
 この研修のために,加藤先生がご自宅に近い軽井沢町上の原に私費を投じて新築された創造科学教育研究所(創研)が完成した 1960 年以降は,同所で毎年夏期の研修が続けられることとなった。それまで学内では軽井沢ゼミと称していたが,この頃から創研夏期研修と呼ぶようになった。
 加藤先生は,その教育指導法が同志社大学に取り入れられ,すぐれた創造力をもつ人物の育成によって,創造教育の範として実証することを強く期待しておられた。そのためには私財のすべてを惜しまないとして,毎年の研修に要する経費の全額を同志社へ寄付して負担し,素質ありと見込まれた学生には加藤科学振興会の奨励金を支給された(財団の基金はすべて先生が私財を提供されたものであった)。研修の回を重ねるごとに参加した教員の間に理解が深まったが,工学部の正式のカリキュラムに組み入れることは種々の事情から困難な状況にあった。1964 年理工研所長に再任された星名教授は,同志社大学として積極的に取り組む必要があるとの考えから,夏期研修運営のために松山秀雄教授を長とする委員会を理工研に設け,また創造工学の市川亀久弥氏を専任研究員(教授)として招くことを理工研協議会に提案して決定した。同時に,1965 年からは経費の過半(1967 年以降全額)を理工研予算から支出することとした。また,この頃から機械系の学生も参加するようになった。
 1967 年春には「創造科学教育 10 年の歩み」が出版された。62 ページの小冊子であるが,開所式における挨拶や研修中の講話などによって加藤先生の唱導されたところが良く理解できよう。その出版について秦理事長から理工研に打診があったが,結局は秦理事長を発行責任者とする法人同志社の発行となった。しかし,その体裁は理化研報告特別号と同様である。
 加藤先生は 1967 年 5 月から病床に就かれ,先生を欠いたまま研修を続けていた 8 月 13 日に逝去された。先生の強い信念と指導力によって次第に効果を挙げようとしていたときに受けた痛手は大きく,その後をどのようにするかが問題となった。秦理事長は松山教授をはじめ関係教員のほか参加学生も招集して,10 年間の歴史と経験を生かして継続発展させてほしいという意向を示し,意見を求められた。加藤先生不在の研修の意義についての懸念もあったが,先生の遺志を継いで軽井沢での研修を継続すべきであり,大学の方針と体制を確立する必要があるとの意見が強く出された。その後, 1967 年 12 月の理工研協議会において,工学部の了解のもとに理工研が創研夏期研修を継承し運営することが決定された。
 このようにして,主催者加藤先生に工学部有志が協力する形で始められた創研夏期研修は, 1965 ~ 67 年の過渡期を経て 1968 年から理工研の事業となり,毎夏実施して今日に至っている。
 加藤先生没後,遺産の多くとともに創造科学教育研究所は加藤科学振興会に寄付されて同財団のゼミナーセンターとなり(さらに 1986 年秋には軽井沢町大日向に研修所として新築移転),他大学等の利用にも供されるため,研修期間は2~3週間に短縮された。また,研究奨励金の支給対象範囲も本学以外にまで拡大されたが、本学では引き続いて毎年数名がこれを受けている。本研修開始の当初から今日に至るまで,加藤科学振興会,特に専務理事山﨑貞一氏(現 TDK 相談役)から頂いて来た,一方ならぬご配慮を忘れることはできない。また,在学中加藤先生の指導を受けた校友山﨑舜平氏から,研修に参加する学生に対する研究奨励金が毎年理工研に寄せられ,各年度 3 名の大学院前期課程学生がこれを受けてきた。さらに,同氏からハリス理化学校開設 100 年,創造科学教育研究所設立 30 年に当たって多額の寄付があり,本年 4 月に理工学研究所加藤・山崎記念基金が設定され,その果実により将来にわたって本事業の拡充が図られることとなった。
 夏期研修の実施に当たって約 10 年にわたる間全体の世話をされ,また秦理事長とともに加藤科学振興会の評議員をつとめた松山教授が 1969 年に逝去され,その後を筆者が引き継いで 20 年余になる。振り返ってみると悩み迷うことも少なくなかったが,その度にご逝去の一月程前お見舞いに伺ったとき,病床に臥したまま筆者の手をとって力強く励まされた加藤先生を思い浮かべて,ようやく今日まで来ることができた。最近は, 1957 年の第 1 回研修に 3 年次生で参加してから 10 年間にわたって加藤先生のご指導を受けた大谷隆彦教授に,研修の全期間における指導の中心的役割を果たして頂いている。また,この間多くの工学部教員からの理解ある協力と,卒業生からの激励と支援を頂くことができた。この機会に深い感謝の意を表わすとともに,加藤先生の遺志を継承してその成果を挙げることができるよう,今後一層のご鞭撻をお願いしたい。(工学部 電気工学科教授:当時)




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年譜



1872 年(明治 5)

碧海郡野田村に生まれる
1880 年(明治 13)腸チフスに罹る(8 歳);母こう逝去(享年 34 歳)
1887 年(明治 20)鶴が崎小学校授業生心得となる(15 才で代用教員)
1888 年(明治 21)鶴が崎小学校に高等小学校分校が付置され、入学
1890 年(明治 23)野田小学校の授業生となる(代用教員)
1893 年(明治 26)同志社ハリス理化学校大学部第二種に入学
1895 年(明治 28)ハリス理化学校卒業
1896 年(明治 29)仙台市立東北学院の教師となる
1899 年(明治 31)京都帝国大学理学部化学科に聴講生として籍を置く
1900 年(明治 33)京都帝国大学理学部化学科に選科生として入学
9 月、菊池トラ(21 歳)と結婚;京都に新居
1901 年(明治 34)マサチューセッツ工業大学(MIT)のノイス教授と出会う
1903 年(明治 36)京都帝国大学より理学士を得る;
渡米し,MIT(ボストン)でノイス教授の助手となる
1905 年(明治 38)10 月、2 年間の留学を終えて帰国
1906 年(明治 39)2 月、父惣吉逝去(享年 62 歳)
東京高等工業学校教授に任命される
1911 年(明治 44)コロイド化学研究にて理学博士の学位を受ける
1912 年(大正 元)東京高等工業学校電気化学科科長となる
1917 年(大正 6)中村化学研究所創立、所長を兼務
1923 年(大正 12)9/1 関東大震災;蔵前校舎被害甚大
1924 年(大正 13)東京高等工業学校が荏原郡へ移転
1929 年(昭和 4)東京高等工業学校が東京工業大学へ昇格;同学教授となる
東北大学金属材料研究所より武井武を助教授として招聘
武井武助教授に亜鉛湿式冶金における歩留り改善の研究テーマを与える
1930 年(昭和 5)各種フェライトの発明
1931 年(昭和 6)高等官一等に除せられる
1933 年(昭和 8)電気化学協会設立、初代会長になる
1934 年(昭和 9)東京工大に建築材料研究所が付置され、初代所長となる
1935 年(昭和 10)勲二等瑞宝章を受章
斉藤憲三、東京電気化学工業(株)を創立;
2年後からソフトフェライトの工業的生産始まる
1936 年(昭和 11)ノイス教授、肺炎で逝去(享年 71 歳);東京で追悼式
1938 年(昭和 13)帝国発明協会から酸化金属磁石の発明に進歩賞が与えられる
1939 年(昭和 14)東京工大に加藤の寄付による資源化学研究所が付置され、初代所長となる
1942 年(昭和 17)財団法人加藤科学振興会を主宰する
東工大教授を停年退官(70 歳)、同大学名誉教授となる
1944 年(昭和 19)同志社工業専門学校教授となる
1945 年(昭和 20)敗戦;当時加藤(73 歳)は、軽井沢で自給生活をしていた
1952 年(昭和 27)藍綬褒章を受章
1956 年(昭和 31)2 月、斉藤憲三らの努力により科学技術庁設置の閣議決定
1957 年(昭和 32)文化功労者の顕彰を受ける(85 歳)
7 月、創造科学教育第一回研修を同志社大学工学部学生に対し、軽井沢にて行う
1960 年(昭和 35)創造科学教育研究所を軽井沢に設立
1963 年(昭和 38)電気化学協会名誉会員に推される
1964 年(昭和 39)勲二等旭日重光章を受ける
日本大学顧問教授となる。同志社大学名誉文化博士の称号を授かる
1967 年(昭和 42)脳軟化症により逝去(享年 95 歳)


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創造の原点




加藤与五郎先生の著書「創造の原点」を下記のリンクをクリックすることで対応するページを開いてお読みいただけます。




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創造・科学・教育

~フェライトの父
加藤 与五郎




同志社大学軽井沢研修 創造科学教育研究所における加藤先生講話記録集(1958 ~ 1966)

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加藤 与五郎 人とその生涯





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  1. 写 真 集
  2. はじめに
  3. 著者のことば
  4. 目 次
  5. 慈母の死
  6. 野田村の昔語り
  7. 再び小学校教師へ
  8. ハリス理化学校の創設
  9. 結婚の前後
  10. ノイス博士とのめぐり合いとアメリカ留学
  11. 帰国を決意する
  12. 蔵前高工へ奉職
  13. 電気化学科の独立
  14. 中村化学研究所の創立
  15. 関東大震災の前後
  16. 大学昇格のころとフェライトの誕生
  17. 電気化学協会の設立
  18. 硫酸法のアルミニウム製錬
  19. OP磁石の工業化と東京電気化学工業の創立
  20. 軽井沢山荘記
  21. 戦争・研究生活・雑事
  22. 停年退官
  23. ハリス理化学校 50 周年記念式
  24. 創造科学教育研究所の建設
  25. 晩年のつれづれ
  26. 「創造則進歩」の碑
  27. 加藤与五郎年譜(星野 愷)
  28. 年譜作成の参考文献
  29. おわりに(武井 武)
  30. 編集をおわって(星野 愷)
  31. 著者紹介



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齋藤憲三氏との出会い



令和2年11月、愛知県刈谷市にて行われた加藤与五郎博士顕彰祭に寄せられた
当財団前理事長齋藤俊次郎氏の文章です。



加藤与五郎先生と父の出会いとフェライトの事業化(TDKの創立)
元TDK株式会社専務取締役・前公益財団法人加藤科学振興会
理事長 齋藤俊次郎


 加藤先生から私自身直接ご指導を頂く機会はなかったのですが、確か私が高校生の頃、父から「もし俺が加藤先生にお会いする機会が無かったら、我々はどんな生活をしていたか分からなかったのだから、お前も加藤先生へのご恩返しを忘れない様に!」と何度か言われたことが以来心に強く刻まれ、私も微力ながらTDK勤務時代から退職後の今日まで、主に加藤科学振興会を通しての若手研究者への支援活動や故郷秋田での理科教育を活発化する為の活動を行う事等によりご恩返しに努めて参った積りです。
 私共は東北の半農半漁の貧しい田舎町の出身ですが、父は若い頃から故郷を少しでも豊かにしたいとの強い思いを持ち、地元の若者が働く場所を作り出す事に情熱を燃やし種々の起業に挑戦を致しました。しかし適当な対象が見出せ無かった中で、ある時当時高級織物として欧州を中心にもて囃されていたアンゴラ兎の毛織物に注目し、そのアンゴラ兎の飼育を行い毛織物産業への参画に可能性を見出しました。そして当時繊維産業の最大企業であった鐘淵紡績株式会社の津田信吾社長より絶大なご協力を頂き企業化に取り組みました。当初は事業が順調に立ち上がり軌道に乗り始めた矢先に多くのアンゴラ兎が伝染病に見舞われ、なす術がなく新規事業立ち上げを断念せざるを得ない状態に陥りました。父は事業を始める際の自らの調査不足を猛省すると共に、この事業立ち上げに並々ならぬご支援を下さった津田社長に衷心からお詫びしお許しを請うたとの事です。津田社長はその失敗を最終的には了解され、別れ際に次の様なお言葉を掛け下さったそうです。「齋藤!心中する相手が見つかった時にはちょいと俺に知らせろよ!」と温情に満ちたお言葉に父は終身、心底から感謝し続けておりました。
 企業化は残念ながら失敗致しましたがアンゴラ兎を飼育し織物の事業に取り組んでいた折に、その各工程で排出される高価なアンゴラ兎のムダ毛の再生利用に付き、知人のご紹介により東京工業大学の加藤先生の研究室に技術的なご支援を頂いたようですが、商学部出身の父に取りましてはその化学的手法の全てが驚嘆の世界だった様です。そこで父は是非加藤先生の研究室で勉強をし直させて頂きたいと強く願った結果、幸運にもその希望が叶い加藤先生の研究室で実験もさせて頂く様になり、アンゴラ兎の毛の新しい再生に関する特許も取得出来るまでになったのを父は大変喜んだそうです。
 父が加藤先生の研究室に出入りさせて頂きたいと思ったもう一つの理由は、加藤先生は学界のリーダーでもあられたのみならず、研究・事業化に関して独特なお考えの持ち主という事も父は存じ上げていた様で、今後の新規事業立ち上げへの挑戦の為に、その辺りに付いても加藤先生から直接お教えを請いたいとの願望も持っていた為だったそうです。
 そうしているうちに当初の念願でもあった加藤先生との直接面談も実現する運びとなり、加藤先生は父の当初の予想であった厳格な感じとは異なり温顔に笑みを讃えた方でしたので、つい失礼をも顧みず傍若無人な質問をさせて頂いたとの事です。父が最初にご質問したのは「我が国で工業を進めるとすればどの様な工業でしょうか? 軽工業でしょうかそれとも重工業でしょうか?」すると加藤先生のお答えは「日本に工業が御座いますか?」という耳を疑う様な辛辣なお言葉に、父は唯々驚愕の念を持つのみだったそうです。そのお答えに対して父は「我が国には沢山の工場があり、盛んに稼働しておりますが‥」と申し上げたところ加藤先生は「あれは99%既に欧米で稼働している事業を模倣したもので真の工業ではありません。」との強烈なお返事に次いで「真の工業とは日本人の頭脳から生み出された独創的な研究成果を事業化することこそが我が国に求められる工業です。」とのお考えを述べられたそうです。
 加藤先生と父との最初の面談は上記の様な内容であった様でしたが、父が申しておりましたのは年齢や立場などを越え加藤先生に対しても父の様に自分自身の意見を主張していく姿勢と、父の起業を行いたいとの理由が貧しい故郷の若者に働く場を提供したいという動機は、加藤先生が「何事を行う場合も「清い心」を持つべし」とのお考えに通じたのではと私は思いますが、加藤先生は父との議論を大変お気に召して下さった様で、加藤先生から「これからも度々いらっしゃい!」とのお言葉を頂いたそうです。
 その後お会いする度に種々な課題に付き上記の様な活発な議論が繰り返された様です。ある時加藤先生に父は「それでは加藤先生の一番大切な発明を私が拝借をして事業化させて頂きましょう!」と申し上げたところ、加藤先生は「よろしい! それでは私の一番大切な発明であるフェライトの特許をお貸し致しましょう。」と提案をご了解されたそうです。「但しそれには一つ条件が有ります。それはNo Obligation Money (使い捨てて苦しゅうない資金)10万円(現在の価値は5~10億円相当)を用意して下さい。」との事だった様です。それに対しては流石強気の父も30歳半ばで定職にも付いていない自分に取っては如何ともし難い金額だなあと痛感し万事休すとも思ったそうです。
 しかし加藤先生の言われるNo Obligation Moneyは独創的発明やその研究成果を企業化する場合は経験の無い事柄が多い為、本格事業化に取り組む前に中間工業試験を行い、種々の課題を徹底的に洗い出し解決しておくか対応策を見出して置く事が必須とのお考えに依る中間工業試験の為の資金で、フェライトの場合加藤先生は当時のお金で10万円を中間工業試験に必要な資金と考えられのだと私は思います。
 しかし父はこの条件を伺いました当初は、これは加藤先生がもしかすると父のフェライトの事業化の申し出に対して婉曲的なお断りなのではとも本当に悩んだ様です。しかし輾転反側何日か考えた末、津田鐘淵紡績社長にアンゴラ兎の毛の事業化の失敗をお詫びに行った折の別れ際に、津田社長から「齋藤!心中する相手を見つけた時はちょいと俺に知らせろよ!」というお言葉を頂いたことを思い出し、何時もの様な若干強引と思われるやり方で津田社長にお会いし、加藤先生とのフェライトの事業化に関する条件をお話したところ当初は流石の津田社長も当惑された様ですが、最終的に10万円を無条件でご支援下さることになったそうです。父は早速頂戴した10万円の小切手を持参して加藤先生の所に向かい小切手を差し出したところ、先生ご自身も「これが本物の10万円だろうね!」と若干驚かれたご様子だったそうです。そしてフェライトは事業化を目指し設立された東京電気化学工業株式会社(現TDK)で正式に操業開始となりました。フェライトの事業化は開始されましたが全て初めてのことでもあり苦労も多々あったようですが、それらをみんなで協力し合い難関を乗り切り、フェライトの他に類を見ない優れた特性を生かした磁性材料として、用途がどんどん拡大し大きく伸びた日本の電子工業を支える主要材料の一つに育ち今日も未だ応用範囲が広がっている状況です。今後は電子工業から電気自動車等への応用が期待されております。
 加藤先生がアメリカ留学で学ばれ帰国後に活動さたもう一つの点は、我が国にも国としての研究体制の構築とそれを支える法整備等の必要性を盛んに政府や財界等に主張された様です。その様な事もあり当初はフェライトの事業化に専念しておりました父も、軌道に乗り始めたTDKの経営から離れ、その後は国会議員として国の技術的課題解決に終身取り組みました。その結果、独創的研究推進の為の国家的体制も時間は掛かりましたが、昭和31年の科学技術庁設立を皮切りに多くの付属研究機関が出来上がり、現在では文部科学省にまで昇格して体制は整いました。それを支える法的処置も加藤先生が帰国後、間もなく提案され始めた関連法律の成立は最終的には平成になって仕舞いましたが科学技術基本法が成立し、我が国の科学技術推進の体制は整ったと考えられます。その体制で今後我が国が世界でどの様な役割を果たすか、取り巻く環境は激しく変化致しますが、令和の時代はその具体策が問われていると私は思います。
 結びに皆様がそれぞれのお立場で、今後とも加藤先生の教えを継承、実行すべく更なる活動を継続され、引き続き国家繁栄の為ご尽力をお願い申し上げる次第です。

加藤与五郎先生(左)と斎藤憲三氏

TDK創立20周年左から:斎藤憲三氏、武井武先生、加藤与五郎先生、
TDK3代目社長素野福次郎氏、TDK2代目社長山崎貞一氏




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A. A. ノイス先生について





加藤先生の「創造」が一番大事であるとのお考えに至った元とも云える、加藤先生を 1903 年から 1905 年の間に
MIT でご指導下さった、A. A. Noyes 先生の没 20 年に際し、加藤先生が日本化学会(1957)「科学と工業」
10 巻 3 号別冊 pp45-47 にお書きになった文章です。

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加藤イズムの系譜


本稿は、2021年の刈谷市野田地区東刈谷地区主催の、令和3年度「加藤与五郎博士顕彰祭」の際に配布されたしおりのために書いた原稿をそのまま掲載しました。加藤先生が日本の科学技術振興のためにご尽力され、創造の大切さを常にお考えになっていた事におおきな影響があったのはMITでの経験だと思われます。A. A. Noyes 先生の没 20 年に際し、加藤先生が日本化学会(1957)「科学と工業」10 巻 3 号別冊 pp45-47 に「人として、研究者として、教育者としてのA.A.ノイス先生」を執筆され、その中に“筆者は数しれぬ程の教訓を受けた”と書かれています。この文章は、本ホームページの「Noyes先生について」に掲載しております。

                            公益財団法人加藤科学振興会常務理事  岡本 明


私は、加藤先生が亡くなられた翌年の1968年4月に卒論のため、慶應大学工学部の武井武先生の研究室に入れて頂いた。以後、2003年に先生が亡くなられるまで35年の永きにわたり先生の近くに接することができ、学問のみならず人としての生き方なども教えて頂き、素晴らしい先生であり、最高の恩師であると思ってきたし、今もその思いは変わらない。 2012年に加藤科学振興会の評議員となり、2013年には事務局長となり、その後常務理事にもなり、加藤先生のことを深く知るようになるにつれ、武井先生から受けた教えは加藤先生のお考えそのものである事がわかってきた。 

MITでの体験

その加藤先生のお考えに最も大きな影響を与えたのは、先生が1903年から2年間MITで助手を務めたときの教授であるノイス先生であると考えられる。
ノイス先生は1866年生まれで、加藤先生より6歳年上であった。高校から化学が好きであったノイス先生はMITに入学し、1886年に学士、1887年に修士号を取得した。その後、当時、化学分野では圧倒的に進んでいたドイツに留学し有機化学の研究を始めたが、ファント・ホッフやアーレニウスとともに物理化学分野を確立した一人であるオストワルドの講義に出て感銘を受け、研究対象を物理化学に転向し、1890年にライプチッヒ大学より物理化学の研究で学位を授与された。帰国後、1903年にノイス先生が3000ドル、MITが3000ドルを出して物理化学研究所を設立した。この研究所で教育を受けた人たちはその後の米国の化学の発展に大きく寄与した。米国の偉大な化学者であり、量子化学でノーベル賞を受賞したポーリングはカリフォルニア工科大学で学位を取る頃にノイス先生から薫陶を受け、1958年にNational Academy of Science誌に”Arther Amos Noyes”を執筆され、ノイス先生の生い立ちや業績を発表した。この中で、先生が設立した物理化学研究所で教育を受け、その後の米国の化学の発展に大きく寄与した代表的な44人の名前を挙げているが、加藤先生もこの中に含まれている。

ノイス先生が学生であった19世紀の米国は、化学分野、工学分野ともに開発途上であり、ドイツやイギリスが、特に化学分野ではドイツが先進性を誇っており、ノイス先生もドイツに留学し、米国の立ち後れを実感したに違いない。そのような状況の中で、できたての分野であり急速な発展をし始めていた物理化学分野に目をつけ、その分野での覇者になろうとし、成功したといえる。
当時の日本では、主にヨーロッパから盛んに重工業や化学工業の技術導入を行い、その受け入れのために必要な技術的な知識を持った人材を養成するのが工業学校の主な使命であった。そんな時にMITに行き、新しい科学理論を作り、新しい工業の種を生み出している姿を見て大きな衝撃を受けたに違いない。ノイス先生がドイツで受けたそれに較べ遙かに大きなギャップを認識するにつれ、受けた衝撃も大きかったものと思われる。帰国後は、先進国から大きく後れをとってしまった日本の科学技術をどう挽回するかに尽力され、制定までに大分時間はかかったが科学技術基本法に対してもその礎を作ったと云える。
NOYES先生が自費を投じて設立したMITの物理化学研究所と、加藤先生が自らの特許収入を東工大に寄附して創立した資源化学研究所に共通するところが有るように思える。資源化学研究所から日本のノーベル化学賞受賞者白川英樹氏が生まれたと言う事も何かの縁を感ずる。
NOYES先生が単にアカデミックな業績だけでなく、何か新しい発想で新しい何かを生み出せる人材を多く育成したというところは、武井武先生、星野愷先生をはじめとし、加藤先生のお考え、加藤イズムを継承する多くの人たちを育成したと云えるのではないかと考えられる。

東京工業大学の創立

ノイス先生は1907年にMITの学長代理になり、2年間学生達の指導の仕方などに大きなエネルギーを割いた。
1913年にジョージ・ヘイルの要請により,兼務でカリフォルニア工科大学の仕事をするようになった。1919年にMITを退職し、カリフォルニアに移り、それからは同大学を科学分野における教育と研究の偉大なセンターにすることに彼の人生を捧げた。CALTECHは1920年の創立であるが、も椅子先生がシカゴから連れてきた初代学長のMILLIKANは、CALTECH が将来有るべき姿になるための核になる人材の人選を行い体勢の構築を行った。ただ、設立の基本的な考え方や人選など、大学運営に対するポリシーに関する考え方は NOYES 先生のお考えに沿うものであった。この辺の経緯は加藤先生もよくご存じで、加藤先生の著書である「創造の原点」の第7章 教育問題の「外国工業大学の例」の項で、カリフォルニア工科大学CALTECH のことを取り上げられ、“このような建学の精神が後に偉大な功績を現したことは大いに考慮すべきである”と書かれている。カリフォルニア工科大学は大学スタッフ数に対するノーベル賞受賞者が多いことで知られている。
CALTECH の創立が1920年、東工大が新制大学として国会で認められたのは1923年、関東大震災で遅れてしまい、実際の創立は1929年ではあるが、その頃ノイス先生と親交のあった加藤先生を通して、CALTECHの創立時のノイス先生の建学の精神が東工大の建学の根本方針に少なからず影響を与えていることは間違いないと思われる。 そう考える根拠は、1927年に文部省に設置された「官立工業大学設立委員会」宛てに東工大の昇格調査委員会が提出した「新設工業大学の根本方針」の中に見て取れる。この文章は委員会が提出したもので、誰が書いたかは不明であるが、この根本方針を加藤先生のお弟子さんである同志社大学名誉教授の大谷隆彦先生にお読みいただいたところ、そこここに加藤先生が日頃からおっしゃっていた文言が入っていると云う事で、筆者は、これは間違いなく加藤先生がお書きになったものであろうと考えている。このように大学の創立などに当たってはその根本方針が非常に重要であると考えられる。
1942年に東工大を退官されたときに、財団法人加藤科学振興会を設立し、1957年には同志社大学の学生を対象にした夏期研修を始められ、1960年には軽井沢に創造科学技術教育研究所を設立され、加藤イズムを継承する人材の育成のための仕組みを作られた。このような仕組みの中から新しい世界を切り開いてゆくような人材が現れることを期待したい。




A.A.ノイス先生




ノイス先生(一番右)、先輩であり、後のGE副社長クーリッジ博士(右から2番目)と談笑する加藤先生(右から2番目)


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科学技術基本法と加藤与五郎


加藤与五郎は、1903 年から 2 年間 MIT のノイス教授の助手として電気化学の研究を行ったが、この間に創造の大切さを認識したり、米国では大学の研究が新しい産業を創出している姿を見てきた。このときから 1967 年に 95 才で亡くなるまで、一貫して創造の大切さや、大学における工学教育の在り方、科学技術行政などについて自身の考えを公にし、自ら「創造科学技術教育研究所」を設立し、創造ができる人材の育成にも尽力してきた。その加藤は長らく政府の「創造技術対策設定」を熱望してきた。その具体的な方策としての科学技術基本法の必要性や内容、また制定に至る経緯に対して、加藤の考えが大きな影響を与えたであろう背景や事実に付き調べた。(文責 岡本明)

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今昔物語



昭和 20 年に発行された刈谷市亀城小学校創立 80 周年記念誌に、
第 1 回卒業生で、当時 82 才の加藤先生が寄せられた文章です。

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